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部活を通じた成長には“個人の目的”が必要である|関西学院大学サッカー部

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2019年08月26日

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この記事でわかること

何のために部活に取り組んでいるのかわからない人
何のために競技に向き合っているのかわからなくなってしまった人

自分の“目的”が、何なのかを知る重要性
どこにあるのかを探し出す方法がわかります。

なぜ目的が必要か

「なぜ大学で部活動をするのか」

「なぜ日本一になりたいのか」

「なぜ生きているのか」


考えたことはあるだろうか。


“なぜ”

つまり「意味・目的」を知りたくなった僕が、自身の経験を交えながら目的とは何か、どう見つけるのかを伝えたい。


なぜ目的が必要か、それは個人に目的が必要な理由は生きる上での原動力になるからだ。

惰性で生きても、待っているのは同じような毎日の繰り返しである。


幼少期は本能のままにやりたいことをやる。

だが成長するにつれ特に思春期には、「なぜ生きているのか」と考えるようになる。

そのころに答えが出ることはまずないだろうが、その課題にはこれからも向き合い続けなければならない。その問いの答えが目的になるからだ。


また、前回、組織における目的・ビジョンの必要性について書いた。

その中で組織の目的のビジョンにコミットするには個人の中に目的がなければならないとした。

📖:関学サッカー部がオンリーワンの強い組織を作るためにチームの目的をなくした理由


人は誰もが家族や部活、職場など、必ずどこかのコミュニティに所属している。

つまりコミュニティの中でよりよく生きるためにも目的が必要になるのだ。


人生に彩りをもたらし、熱量が生まれ、刺激的な人生にしてくれるのが目的の持つ力だ。

目的とは何か 

ザッカーバーグの語る目的感

目的とは、自分よりも大きいものの一部であるという感覚です。必要とされている、取り組むべきより良いものに携わっているという感覚です。目的こそが、真の幸福をつくります。

そして、自身の目的を持つだけでは不十分です。他者のために目的意識を生まなければなりません。
ハーバード大学でのスピーチ(2017).

Facebook CEO マーク・ザッカーバーグ


これはフェイスブックを生み出したマーク・ザッカーバーグによる、ハーバード大でのスピーチの抜粋だ。

スピーチはYoutubeでも視聴が可能だ。


また、BuzzFeedに、以下のタイトルでスピーチが日本語で書き起こされているので興味があれば見てほしい。

【全文】マーク・ザッカーバーグがハーバード大で語った「人生に目的が必要なわけ」


大学2年の時にこのスピーチを見て、大変共感した。

まさに、僕自身の抱く目的感とは、「貢献すること」だ。

ザッカーバーグの言い方を借りれば、必要とされ、取り組むべきより良いものに携わっているという感覚だ。


なぜ僕がサッカーをするのか。

それはやはり勝った時の喜びや幸福感だろう。


この幸福感は共に喜べる仲間がいてこそだ。

勝った時の喜びはチームメイトに「貢献」できたと感じているからだと気付いた。

応援、水を入れる、点を取る、テーピングを巻く、様々な形で実践された貢献の結実が勝利なのだ。

誰にでもできる仕事ではなく、勝利という目標に自分なりのやり方で貢献し、チームにつながりが生まれていく感覚が好きだ。

また、僕自身は無名の高校出身で、関学では一番下のカテゴリーからスタートした。


その自分がキャプテンマークを巻き、試合に出ることで大学でサッカーを続けるか迷っている人の一歩目を後押ししたり、現状苦しんでる人の希望になりたいと思っている。

それが自分にできる「貢献」の形だと信じている。

目的感が芽生えたとき

では、なぜ「目的感=貢献感」という感覚が芽生えたのかを紐解くため、少しだけ僕の人生の振り返りに付き合ってほしい。


日本代表が初めてサッカーW杯に出場した1998年に生まれ、日本はサッカーブームの只中。

親が息子にサッカーをさせるには当然の環境だった。


幼少期は「親に言われてやるサッカー」だった。

練習しなさいと言われてやる、そんな経験は誰にでもあると思う。

言い換えると、「親に褒めてもらうためのサッカー」だったとも表現できる。

点を取って、リフティングを100回して、褒めてもらうためにプレーしていた。

(点を取ったらアイスを買ってもらえていた気がする。)


しかし、ある時自分の中でサッカーへの取り組み方が変わるきっかけとなる出来事があった。

高校でキャプテンになった頃だと記憶している。

ちなみに、高校は現在神奈川県リーグ3部。その中でも試合に出れたのは3年になってからだった。

横浜FCの中学年代のチームに0-10で負け、リーグで他校のBチームに負ける自分たちにとっては、あまりに遠い目標だった。

10キロ走ってから紅白戦をし、0時に寝て5時に起きる生活の中で理想と現実のギャップに苦しみ続けた。


こんなにしんどくて何がしたいんだろうかと考えると、この時には承認欲求は消え去っていた。


褒められたくて、キャプテンをやったわけではなかった。


個人としてもチームとしても結果が出ず、褒められることが目的になっていたら、もはやサッカーを続ける意味がなかったからだ。

ならこれだけキツくても、「なぜサッカーをしているのか」「なぜ県優勝したいのか」と疑問を持ち、その意味を追い求めるようになった。


キャプテンとしての責任感と積み重なった挫折により、「評価を求めるサッカー」から「意味を求めるサッカー」に移行しはじめた。


「評価を求めるサッカー」とは、誰かに褒めてもらう、誰か(監督など)の欲求を満たすためにサッカーをする、即ち「承認欲求を求めるサッカー」である。


最終的に、弱小ながら県で2位という成績を残した。

しかし2位では、他県からの注目は一切ないし、学校を出たら褒めてくれる人なんて誰もいなかった。

それでも県優勝できない悔しさの中に、確実に充実感が存在していた。

この充実感に「サッカーをする意味」が隠れていた。


次のステージは、関西学院大学サッカー部。

創部100年を数え、天皇杯優勝や四冠達成などの強豪で(今は自分たちを強豪だとは微塵も思っていない)、周囲からは激しく反対された。

個人の実績もなく、五角形のグランドの上で3年間プレーをし、目立った能力もない僕を知る人からしたら当然の反応だった。


1年の時からあまりに高すぎるレベルに圧倒され、文字通り死に物狂いでプレーした。

なぜか5月ごろにAチームに上がるものの、やはりついていけず、2週間でBチームに落ちた。

その後2年生になるまで、Bチームのサブが定位置になる。

冬のアイリーグ(Bチームの全国大会)では仙台でビデオ撮影することが使命だった。


1週間ほどホテル泊だったから、かなり金銭的に負担をかけたのに、ビデオ撮影。

帰省した時は両親への申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

2年になってAチームに上がり、ここからだと思ったら直後に骨折で離脱。

復帰後も思うようにプレーできず、夏休みには3試合連続で自分のミスから失点した。

苦しい出来事があると、その度になぜサッカーをしているのかを考えていた。


これ以上悔しかったことを書いていたらそれだけで記事が終わりそうなので、割愛する。


やはりここでも、

「なぜサッカーをするのか」

「なぜ日本一になりたいのか」

「なぜ生きているのか」


その「意味」を知りたくなった。

これだけ辛いことの連続なのになぜ続けられるのか。

サッカーが好きなだけならサークルや社会人でもいいのに。


あるとき、高校時代は、キャプテンをやることで少しチームに貢献できたと感じたから、敗北の中にも「意味」を実感したのだろうと考えた。当然、勝てなかった後悔は強く残っている。


当時はそれを暗黙知で捉えていたが、大学での日々がぼやけていた輪郭をはっきりさせてくれた。

選手をやめてチームのために(もちろん本人にとっては自分のためだが、)スタッフになる決断をする人や、大怪我してリハビリを頑張りながらチームのために行動する人たちを見て、「貢献する」ことの偉大さを学んだからかもしれない。


承認ではなく、「なぜその目標を成し遂げたいのか」という「意味」を考えるようになった。

それがまさに「目的」で、自分自身の目的が「貢献感を抱くこと」だった。

高校で感じた「意味」はこのチームでやれてよかったと言うみんなに少しでも貢献できたと感じたからだったのだ。


そして今も、選手として、主将としてチームに少しでも多くの貢献をしたいと思っている。

どう目的感を抱くか

経験から考える

プロセス1 「承認欲求からの脱却」

誰かに褒められたくてプレーしていると、自身のモチベーションを他人に委ねることになる。

承認欲求は大きな力になるのは間違いないが、自分でモチベーションをコントロールできないと言う弱点がある。

また、うまくいかない時に責任の所在が自分でなくなってしまう。


高校時代に負け続けて褒められることがなくなり、ガクンとモチベーションが下がった。

結果的に、自分を守るために承認を求めなくなった。(承認を求め続けていたら、やる気が持続せずにやめていたかもしれない)


繰り返すが、褒められることを望んではいけないと主張したいわけではない。

何かひとつでいいから、褒められる以外に頑張る理由を探してみよう。


プロセス2 「目標を成し遂げたい理由を考える」

褒められるという動機がなくなり、頑張るための拠り所を必要とした。

そして「意味」を求めるようになり、自分の奥底にある内発的なモチベーションが刺激された。


「なぜ日本一になりたいのか」という意味を探求し、その答えこそが目的だった。

IKIGAIから学ぶ

僕は「なぜサッカーをするのか」を考えることで目的感を抱いた。

承認欲求から脱却し、自分自身の心に従って生きる。


ただ、これだけでは少し抽象度が高くて考えづらい気もする。

そこで、次の方法をお勧めしたい。


あなたはIKIGAIという言葉をご存知だろうか。

この言葉は世界中のトレンドになっている。


お気付きの通り、日本語の「生きがい」のことである。

生きがいという言葉は海外にはない概念だ。その概念をわかりやすくまとめられている本がたくさんあり、今人気を博しているのだ。


IKIGAIの図は次の通りである。

IKIGAIの図

部活動をしている人は世間をチームなどに転換してみてもらいたい。

稼げるは仕事においての目標と考え、例えば日本一、などの目標に置き換えてほしい。

そして、この生き甲斐がそのまま目的感である。


今回の文章に沿った図に置き換えるとこんな感じだ。

IKIGAIの図を記事の内容に置き換えた図

目的を探るプロセスとして、まずは「大好き」「得意」「目標」「組織のニーズ」を考えてみることから始める。


この「大好き」「得意」「目標」が見つけやすいのが体育会の強みでもあると思う。

競技への愛や、得意分野があること(競技そのものや、組織における役割としての強み)や、成し遂げたい目標があることはそれだけで価値になる。

おそらく考えなければならないのは、「組織のニーズ」だろう。

チームが自分に何を求めていて、自分はチームに何ができるか。

要は存在意義を見出そうということだ。


この4つがわかれば、使命・天職(組織における自分だけの存在意義)・専門性・情熱がわかってくる。

さらにこれらが重なる部分に目的感がある。


なぜ目標を成し遂げたいのかを考えるのは抽象度が高いが、これなら少しは目的を探りやすいかなと思う。

終わりに

刺激と反応の間にはスペースがある。そのスペースの中で、自分の反応を選択することができる。その反応にこそ、我々人間の成長と自由がある
7つの習慣 -成功には原則があった- キング・ベアー出版

ある本の一節にこのようなことが書かれていた。


人間的成長とはなんだろうか考えていた頃、ああこれかと腑に落ちた。

そして、反応の選択をする際に目的によって、最適な反応を選択できるんだと気付いた。


試合に負けた時、スタメン落ちした時、怪我した時、何もかも投げ出したくなる。

でもそこで転落するより、もう一歩頑張る方が貢献感を抱ける。

負の刺激の後、何通りもある反応の中で目的に合致するものを選び取れる。


逆境を跳ね返し、楽しく情熱を持って生きるため、あなたに目的感を抱いて欲しいのだ。


おまけ 目的とは何か

言葉という枠組みの不完全さ

ここでは、すでに目的について考えているけど、目標やビジョン、夢との違いがわからない、などの悩みを持っている人、誰かに目的の意味を伝えたいけどよくわからん、という人に向けて書きたい。時間がなければ読み飛ばしてもらって大丈夫だ。


さて、前回の記事で書いた通り、目的というのは言葉の定義付けが難しい。

ググってみると、2パターンある。


1. 目的とはゴールで、目標は目的というゴールまでとの距離感を掴むための指標(目標は目的を達成するための手段)=最終目標

2. 目的とは、なぜその目標を成し遂げたいのか=理由


関学サッカー部ではこの2パターンのどっちで定義付けしているか曖昧になっていた。

そして、日本一を必ず取るという意思を示し、2の定義付けを選択した。


他にも「夢」や「ビジョン」など、違いをはっきり示しづらい言葉がある。日本語は本当に難しい。

またググると、夢は成し遂げれるかわからないけどなりたいこと。

ビジョンは成し遂げたい、成し遂げなければならないものらしい。


いやいや、ビジョンと目標ほぼ一緒やん。

検索結果に沿って考えると、「サッカー選手になることが夢です」って短冊に書くレベルなら「夢」だろう。

でも本気でなりたいと願い努力してる人が語る「夢はサッカー選手」は成し遂げれるかどうかわからない、なんて中途半端な決意じゃないだろう。ならそれは「夢」ではなく「目標」なり「ビジョン」なのだろうか。


でも最近になって思うのは、言葉というフレームワークって実は不完全だということ。


明治以降に西洋から入ってきた言語を日本語に訳すことができず、約30年の間で無理やり作られた日本語は多い。


「社会」という言葉は「society」にあたる日本語がなく、社(やしろ)と会(会合)の組み合わせで、土着の神様の集合や、やしろを中心とした集会のような意味で無理やり作られた。

ただ、西洋と日本人には決定的な違いがあり、僕らには「唯一神」がいないのだ。さらに言えば西洋の人からすると、godは神ではなく天らしい。

つまり、彼らの「社会」は天を拠り所としているからめっちゃ範囲が広い。反面日本人の拠り所は広めに見てもやしろの周辺でしかない。

つまり、「社会」という言葉は本来の意味を捉えきれておらず、不完全なのだ。

「アイデンティティー」や「タスクドリブン」など訳しきれない言葉はたくさんある。

逆に「もったい無い」という言葉は日本独自だし、先述の通り、「生き甲斐」なんかもそうだ。


「夢」という言葉は平安時代は眠る時に見るものという意味しかなく、「将来の夢」という使われ方も近代以降になる。


結局何が言いたいかというと、チームビジョンを考えていた頃は目的の定義や目標にかなりこだわったが、結局日本語という枠組みさえ不完全だから、何が正しいのかを追い求めるかよりも、コミュニティの中でしっかりと定義付けて、アウトプットも可能な状態にしておけば問題ないかなと。


そして僕の中の定義付けは、「目的=なぜその目標を成し遂げたいのか」。


家族に恩返ししたいのか、プロになるための手段なのか、チームで喜びを爆発させたいからなのか。理由は様々だが、そこに自分の大切にしたい何かがあり、それこそがあなたの目的だ。

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